仲哀天皇9年、神功皇后が三韓を攻め、凱旋して筑前国宇美にて皇子(後の応神天皇)を御出産。
翌年、穴戸(長門)の豊浦宮に向かう途中 鷹尾(高尾)山にさしかかると、皇子は山頂の大石を見るやその上に初めてお立ちになり、長浜や文字ヶ関(門司)から遥かに穴戸の方角を望み、「穴戸は近し」と言われたと伝わります。
敏達天皇12年、勅命によってこの故事に基づき、鷹尾山の麓、朝倉谷において応神天皇、神功皇后、仲哀天皇を祀り、葛城小藤丸をして祭祀に当たらせました。「篠崎神社」の創建です。(鷹尾山は現在地の約1㎞西にあったといわれています)
天平2年(730)宇佐八幡宮より分霊を勧請。「篠崎八幡神社」と改めました。
貞観12年(870)大中臣国雄が筑紫の宗像宮に勅使として下向の際、篠崎八幡神社にも物品を奉納しました。余談ではありますが、そのときの勅使殿があった所を「皇の使い山」と言うようになり、訛って「コフノス山」が鴻の巣という字名になったといわれています。この頃は七十二度の年中行事があり、本殿拝殿はもとより勅使殿、神饌殿、神楽殿、宮役所、神輿殿、宿直殿、公文所などをそなえ宇佐香椎の大社に押し並び、朝廷においても式内社同様に遇されておりました。
平安時代初期の藤原純友の乱に於いて兵火にあい、社殿をことごとく焼失。また、近世に於いては天正年間に大友宗麟により、またも社殿を焼失するという憂き目に罹りました。
しかしながら社殿御造営の棟札より窺い知れるのは、兵火に罹りことごとく灰燼と帰しても、その都度あつい尊崇のもと篠崎八幡神社が再興されたということです。
主なところでは貞和3年(1347)3月の棟札に「将軍尊氏造立奉る」とあり室町幕府の尊崇を受けたと見えます。
また、元和3年(1617)3月の棟札に「篠崎八幡宮本殿一宇建立大願主両豊之領主細川越中守源朝臣忠興」と記されているとのこと。ご神事の再興に加え神宮寺を備え流鏑馬の催し等も盛んに行われました。
本殿の回廊より東北を望めば小倉城。表鳥居の下には紫川が流れ、向かいの東には霧ヶ丘に廣壽山、企救の高浜。遠く望めば文字が関まで見渡し、また、南は貫山を遠く望む。近くは小山うち重なり加茂の神の為に桜の馬場を開く。東ところどころ誠に潤し。
と、豊前國企救郡誌に謳われたのもこの頃のことです。
細川忠興公、小倉城を築いてより府内の官社と崇め給い、なお時代が下り、千束藩主小笠原直方公篠崎に館を築き篠崎公と称す。ともあり、代々の藩主の信仰の厚さが偲ばれるところであります。
時は移り今日に至るまで宮司家は59代をかぞえ、「篠崎八幡神社」の境内を荘厳で美しい神域となるよう研鑚を重ねてまいりました。
先人たちの偉業を鑑み、さらに尊崇あつい「篠崎八幡神社」を体現すべくその意志は今も尚、脈々と受け継がれているのです。